(この物語は夢咲すずが寝ているときに見た夢を元に書いたフィクションです。実際の人物などには関係ありません。)
富める者はますます富み、貧しき者は持っているものでさえ取り去れるのである。新約聖書によれば、イエス・キリストがそう言ったとされているが、無神論者である僕にとっては、そんな御伽話なんて一切興味が無い。この目で見たもの、この身体で感じたもの。それ以外の物事を信じていられるほど僕は気楽者ではない。
だが僕は、このイエス・キリストの言葉は正しかったと考えている。そうでなければ、僕はこんな薄汚い生き方をすることは無かっただろう。
飛び交う怒号、立ち上がる炎。終わりの無い貧しさにこれ以上耐えることができなくなった民衆は、人の道を外れ、暴徒と化した。街は焼け、草木は枯れ果て、生命の息吹は無機質な砂嵐と変貌する。もはや夢も希望の一欠片さえも無い、この地が僕の仕事場だ。
今日の仕事は至ってシンプル。暴徒や強盗団が盗り残した食料や金品などを拾い集めるだけの作業。所謂、火事場泥棒というやつだ。僕はこの仕事を始めて7年になるが、誇りも無ければ罪悪感も無い。人の道を外れて生きる、そんな僕を咎めてくれる人なんて、もう何処にも居ないのだから。
激しい雨が降る。民衆の暴動と怒りの炎は鎮まり、つい先程まで街があったこの場所には白い灰だけが降り積もる。皮肉にも、それはまるで幼い頃に見た故郷の雪景色のようだった。二度とは戻れないあの故郷。願わくば再び────
なんて、もう考えないようにしていたのに。
諸行無常とはこんなにも残酷なものなのか?驕れる者久しからずとは云うけれど、滅びるのはいつも貧民。平家は手を差し伸べるどころか、見て見ぬふりをするばかり。
かの福沢諭吉先生はこう言った。天は人の上に人を作らずと。しかし現実はどうか?銀行券とかいう紙切れのせいで、今では富裕層の象徴だ。現実とは、こんなにも皮肉で薄情なものか。
しかし、民衆はそんな現実を理解していないのか、あるいは直視しようとしていないだけなのか。過酷な今を生き抜けば、いつか幸せな未来が待っていると信じているようだ。根拠など一つもない妄言。それなのに、彼等の瞳はどこか生き生きとしている。何故か。
やがて砂嵐が吹き荒れると、かつての街の面影は完全に吹き飛んだ。また一つ帰る場所を失った僕は、父の形見のボックスカーに戦利品を積み込み、次なる地を目指して進む。この世界にはまだどこかに楽園があるはず────
そんな、根拠の無い戯言を唾と共に吐きながら、ボックスカーは荒野を駆ける。
命の輝きを忘れた大地。吹き荒れる砂嵐。かすかに残る希望の光もいつかは潰える。それなのに、何故人は夢を見続けるのだろう。
今日も一つ光が消えた。
あまりに無情な現実から目を背けた少女は一人立ち尽くす。そんな彼女の姿を僕はただ見守ることしかできなかった。砂に飲まれゆくこの世界に、僕は何を見る。